柴又七福神のひとつ、福禄寿をお祀りしています。

和尚の独り言

(その23)2004/01/05

 昨年、月例会の会員の方々とヒマラヤの小国、ブータンへ行ってきました。
 ブータンは四十年程前まで鎖国をしていた王国です。とても熱心な仏教国で、たくさんのお寺があります。その中でも「ゾン」と呼ばれる大きなお寺は、各行政区ごとにあり、首都のティンプーにあるブータン仏教の総本山「タシチョ・ゾン」には、国王が執務する中央政府が併設されております。
 日本では、お寺の中に政府の役所があるなどということは考えられませんが、その起源は中国にありました。「寺」という字の「寸」は手を表わし、手を動かして働くことを寺といい、広く官庁を寺と称したそうです。
 また、後漢の明帝が西域から来た僧を、外交の役所であった鴻濾寺に住まわせたことから後に仏教寺院を「寺」の意に使うようになったと言われています。
 「テラ」の音は、パーリー語の「thera」(テーラ・長老の意)から来たとも言われ、韓国語の「ctyol」(チョル)が変化したと言われています。

(その22)2003/01/05

 昨年は北朝鮮拉致事件が大きな衝撃とともに報道された。五人の拉致被害者が帰国されたことは、大変喜ばしいことであったが、未だに安否の不明な方々も大勢いるらしい。それにしてもテレビ等の報道がまるで芸能人を追うように彼らの一挙手一投足を伝え競っているのはどうかと思う。それに引き替え被害者の方々のコメントを聞くと、問題の重要性がどこにあるのか、今現在の自分たちの置かれた立場と家族のこと、北朝鮮国内の状況を的確に把握されているように思う。
 かつて内山興正老師は「凡夫は踏切を通過するたくさんの電車の行き来に眼を追われ、本来見据えなければならない踏切の向こう側にあるものを見ることができない」と言われた。
 問題の本質を見失うことなく解決の道を見つけるためには、彼ら自身のようにドッシリと腰を据えた報道と政府の対応が求められる。、そしてなによりも日本人国民一人一人が氾濫する情報にとらわれることなく彼らを温かく見守ることではないだろうか。一日も早い全面解決を祈らずにはいられない。

(その21)2002/09/10

 昨年のニューヨーク同時多発テロ事件から一年になります。アメリカ主導の報復戦争、中東紛争の泥沼化、これらはいずれも宗教対立をはらみ、宗教そのものに対する不信感が広がっているように感じられます。民族や文化の違いによる宗教の違いは当然のことと考えますが、それが互いの敵対心をあおり不信感を深めることになるのはとても残念なことです。宗教や信仰によってこそ、民族や文化を越えて問題解決の道を開くことができると考えることはできないでしょうか?
 二十一世紀は「宗教の世紀」「心の世紀」といわれます。二十世紀までの価値観では対処することのできない、全地球的な問題としての環境問題、食料問題、人口問題など、もはや一部の民族や国家だけでは解決できない問題を孕んでいます。地球という小さな惑星に住む運命共同体であることを忘れてはいけません。不安定な世界情勢の中、宗教者、仏教者としてなにをなすべきかが問われる世紀でもありましょう。

(その20)2001/12/29

二十一世紀の幕開けは、忌まわしい事件でした。ニューヨークの貿易センタービル爆破事件に対し、その後の反テロリズムの武力行使が続いています。テロリズムはもちろん非難されるべきでありますが、それに対する報復攻撃が果たして、アフガニスタンに世界に平和をもたらすのでしょうか。一時は宗教戦争の様相を呈していましたが、どんな宗教においても最終目標は人々の平安を願うもののはずです。
 お釈迦さまの教えの根本も人々の平安にほかなりません。お釈迦さまの教えのどこをとっても決して争いを肯定する文言はみあたりません。キリストの教えは愛です。
イスラムの教えも決して争いの教えではありません。
 社会の不平等が原理主義を呼び、過激な行動を生むこととなるのです。武力に対する武力の行使は新たな争いを生むだけです。「人類はみな兄弟」と言った方がおりましたが、全人類が地球人としての意識を確立し、世界中が環境を守りながら平和で平等な社会となることを願わずにはおられません。

(その19)2001/01/05

 世の中はミレニアムとやらで、新世紀を迎えなにやら華やいでいる。本来暦は民族の文化や宗教によって違うのであるが、まあ世の中のシステムがキリスト暦に馴染み、統一されている方が都合のよいことも多いので堅いことは言わぬこととしよう。  
 振り返ってみれば二十世紀ほど科学の発達著しい世紀はなかったであろう。その分自然破壊もおびただしいものである。私たち人間は、個人の利益のために、あるいは社会の利益のために多くの取り返しのつかない犠牲を払ってきたのである。
新しく迎えた二十一世紀にはこれら二十世紀からの負の遺産を引き継がねばならない。
 私たち一人ひとりが力を合わせ、自然を元の姿に戻す努力を怠ってはいけない。それが出来なくなった時、自然は大きなしっぺ返しをするにちがいない。 
 それと同じように、私たちは個人の欲求を求めて止まない時代でもあった。自己中心の生き方は社会を惑わし、まさに末法の世を呈しているといえよう。自分のことはさておき、世のため人のために何が出来るかを自問してみたいものである。

(その18)2000/09/04

 みなさんは、お詣りの時なんとお唱えになりますか?
 本尊さまが観音様であれば「南無観世音菩薩」お釈迦さまにお詣りする時は「南無釈迦牟尼仏」また時によって「南無阿弥陀仏」と唱えたりされると思います。
 そこで今日は「南無」について記してみたいとおもいます。
 テレビのコマーシャルで、手を合わせた小さな女の子が「ナーム(南無)」と唱え、「お仏壇の**」というもので一度はご覧になったことがあると思います。
 インドへ参りますと、お互いに合掌して「ナマステー」と言って挨拶をします。元々の意味は「私の心をあなたに差し上げます」「あなたと私は一体です」というような意味です。
 また、南無(ナーム)には帰依するという意味があります。帰依とは学徳の優れた人に全てを投じ、信じてお任せするということです。
 「右ほとけ 左はわれと 
   あわす手の
     中にゆかしき 
       南無のひと声」
 という歌があります。
 右の手に仏さまの心を戴き、左手に自身の心を込めて合掌した時、はじめて仏の心と一つになれるのではないでしょうか。
 そして私たちの日常においても、互いに心を一つにして拝みあう心を持ち続ければ、まさに仏国浄土の世界となるでしょう。

(その17)2000/1/10

☆世間では「ミレニアム」とやら「Y2K」で、すったもんだの大騒ぎをしているようである。仏教では釈尊がお生まれになった年、西暦紀元前四六三年を紀元とするので、仏紀は二四六三年ということである。世界には色々な宗教があり、文化がある。そして、そこには各々が暦をもっているのである。余談はさておき、旧暦であれ新暦であれ、新しい年を迎えるということは、心を新たにする絶好の機会であり、大切な節目であろう。☆「盆と正月」の言葉どうり、お正月は盆とならぶ日本人最大の行持である。お寺では正月三ケ日の間、新年を祝うとともに、世界の平和、全ての人々の幸せと仏教の興隆を祈念する法要が行われる。☆世間では、初詣にどこそこ神社は何百万人等と報道される。お寺に初詣されるようになったのは、江戸時代の神仏混交になってからである。昔は「恵方参り」といわれ、その年の縁起の良いとされる方角のお寺にお参りし、一年の幸せを願ったことに始まるといわれる。☆仏教では正月を「修証の月」と言い、誤りを正す月なので「正月」という。「発心正しからざれば、万行空しくほどこす」という言葉がある。年頭に当たって、心を新たに軌道修正をしないと、とんでもない方向に進んでいってしまうのでは?

(その16)1999/9/15

◇中高年の登山がブームである。和尚も中高年の一人として、日頃の運動不足を補うため、ここ数年登山を楽しんでいる。最近、登山と坐禅の妙な共通点に気がついた。それは呼吸法である。 ◇登山のコツは、一息吐いて一歩あゆむのであるが、一歩がほぼ足の長さという短い一歩、これが、疲れない登山の理想とされる。坐禅では経行の時、一息半歩といい一呼吸吸って吐いて一歩と、まったく同じである。 ◇また、二千五百メートルを超える高地に行くと、薄くなった酸素の影響で高山病になる危険がある。この時、大きく深呼吸をしてたくさんの酸素を肺に導けばよいのであるが、このコツはまず最初に精一杯息を吐き出すことである。息がすべて吐き出されれば自然と肺いっぱいに吸気されるのである。けっして息を吸おうとばかりしてはいけないのである。坐禅の呼吸もまったく同じで、静かに口から息を吐き出せば、自然と鼻からそれに見合った空気が吸気されるのである。この調息がきちんとできれば、その坐禅は素晴らしい安楽の法となるであろう。 ◇秋月龍眠先生は、登山は瞑想修行と同じであると示されている。頂上(悟り)に向かって精進し、一つの峰を踏破すると次の峰を目指す。山は次から次へと現れる。まるで私たちの人生そのままに。

(その15)1999/1/15

☆科学・文化・医学の進歩にはめざましいものがあるが、はたして手放しで喜べるのであろうか。現在の日本人の生活レベルで全世界の人々が生活したならば、地球はたちまちにして破壊されてしまうという。便利で快適な生活も地球規模・宇宙規模で考えるとき、これでいいのかと待ったをかけ、今一度見直す時にきているのではなかろうか。☆文化的生活とは見方を変えると、より便利に快適な生活をしたいという利己的な考えで、困ったことにその欲望はとどまるところを知らない。そのいきつくところは、我々の住む地球環境の破壊につながるのにである。☆人間の知恵や分別とはまさに浅はかなものである。釈尊はこのような人間の知恵や分別の限界に早く気付けと示される。そして謙虚に大地の声を聞き、大地の姿を見つめ、それに従えと説かれる。浪費社会に今一度目を向けて「足ることを知り」地球との共存を真剣に考える時である。昨今の景気の低迷は、私たちに「もう一度よく見直してごらん」との地球の喘ぎかもしれない。

(その14)1998/9/1

☆環境問題が叫ばれて久しい。曹洞宗でも「グリーンプラン」を掲げ、環境保護に積極的展開を広げている。近年、猛毒のダイオキシン発生が問題視され、ゴミ問題はとくに深刻である。当山においても例外ではなく、昨年より焼却炉の使用を停止、墓地のお花は有料ゴミ、卒塔婆の焼却も業者に委託するなど環境を取り巻く問題はお寺の中にも大きく影響している。 ☆私たちは「もっと豊かに」「もっと便利に」「もっと快適に」と限りない大量消費と大量廃棄を続けてきたが、これらの欲望は決して満たされることはない。お釈迦さまは最後の説法の中で「欲を少なくして、足ることを知りなさい」と説かれた。 
☆私たちはお互いが、かけがえのないこの「地球丸」という一つの舟に乗っている運命共同体、大自然の大きな恵みの中で生かされていることを忘れてはならない。大自然の恵みに感謝し、一人一人が資源を大切に、無用な消費をなくす実践を心がけねば、いつか地球丸は崩壊してしまう。

(その13)1998/1/15

◇昨年は、金融不安が増長し、今までには考えられなかったような都市銀行の破綻や証券会社の倒産があいつぐ一年であった。バブル成長で土地は想像を絶するような金額に跳ね上がり、それを転がすことで益々増長させてきたのであるが、いつかは崩れ去る泡沫となることは、実のところだれでもが分かっていたのではなかろうか。◇それ故に、自分の利益だけは固守しようと証券会社は子会社に付けを廻し虚構の利益を上げ、総会屋は、この時とばかりその企業から搾り取ろうと暗躍し、政治家はこれ以上ない安全な利殖を証券会社に要求するのであろう。◇水の高きから低きに流れるがごとく、常に移りゆくのが世の常である。良い時もあれば悪い時もある。良寛和尚は「炊くほどに風がもてくる落ち葉かな」と詠まれたが、夢にうつつをぬかすことなく、あるがままに今を堅実に生きることが寛容であろう。

(その12)1997/8/25

◇福島県東海村の動燃爆発事故は言うに及ばず、本年初頭の重油流出事故等々、地球環境の破壊は私達の想像を絶するスピードで進んでいます。オウム真理教に現れる現代人の心のすき間。宗教に名をかりたあやしげな商品につられてしまう人々。心の悩みを抱え助けを求めている人々。そしてまた若年者による残忍な犯罪。果ては不信感がつのるばかりの政治や先行き不明の経済・・・。現代社会は実に様々な問題に直面しています。◇この様な混沌とした社会にあって、果たして宗教者には何が出来るのでありましょうか。災害や弱者救済には具体的な対処で対応できますし、ボランティア活動など現に色々な形で実践されています。残る問題の解決には、一人宗教者が取り組むだけでなく、宗教的な規範の元に良心と節度に基ずく社会を、お互いがきずいていかねばならないでしょう。◇そのための第一歩は、家庭というミニ社会からはじまります。日々の生活の中で、きちんとお互いを認めあい、礼節を重んじ、報恩感謝の心を培わねばならないと確信します。朝起きたら「おはようございます」、出かけるときは「いってきます」「いってらっしゃい」、こんな簡単な事でさえ実行できているでしょうか。またお寺参りはおばあちゃんの専売特許ではありません。是非是非ご家族揃ってお参りしていただきたいものです。二十一世紀を担う人々を育てていく責任は、宗教者も含めて私達大人の責任でありましょう。

(その11)1997/1/1

◇ここ五年ほど中国・インドを旅行している。今年はパキスタンから中国へ標高四千九百メートル余りのクンジュラブ峠を越えた。中国・西安からインド・ナーランダまでの三蔵法師の道を辿っての旅である。旅には色々なスタイルがあるが、テーマを持った旅は格別に楽しく果てしない。三蔵法師(玄奨三蔵)は、長安(西安)から遠く天竺(インド)まで、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠、そして天山山脈カラコルム山脈を越え、往復二十四年の歳月をかけ、多くの経典を書写して持ち帰り、その翻訳に生涯をかけた。その旅程の文化や歴史などは「大唐西域記」に詳しく記されている。またこれを元にした「西遊記」は余りにも有名である。 ◇先達の足跡を辿るということは、一種のあこがれと羨望の現れだと思う。なぜ道元禅師の永平寺で修行をしたいのか、なぜ道元禅師の修行された中国天童寺へ参りたいのか。それは道元禅師に一歩でも近ずきたい、道元禅師のような生き方をしたいという夢を追っているのかもしれない。 ◇玄奨三蔵は「出家してどうするつもりか?」との問いに、「私は僧になって、心は遠くブッダのあとをつぎ、その遺法を輝かしたい」と答えたという。玄奘三蔵の足跡を辿る道はまだ半ばである。玄奘への憧れと尽きることのないロマンを求める旅は当分続きそうである。

(その10)

◇最近気になるニュースに、薬害エイズ問題と住専問題、TBSのオーム報道などが挙げられます。どれも大変な問題ではありますが、私自身共通して許せないと感じるのは、政府にしろ関係の企業にしろ、その対応の不誠実さと言うか無責任さであります。どこかで情報が漏れると、仕方なしにそこまでは認め、知られていない部分はなるべく隠しておこうとゆう姿勢が見え見えです。そこには真剣に被害者や国民のことを考えている素振りさえ見えません。 
◇二十年ほど前にロッキード事件がありました。アメリカ議会の調査から明るみにでた事件は、時の総理大臣にまで及ぶ大疑獄事件でありました。この時の印象として今でも記憶に新しいのは、ロッキード社の幹部は総ての罪を認め明らかにしましたが、日本国内の証人喚問では「記憶にありません」などといって、のらりくらりと答弁していたことです。 
◇この両者の映像を見てわかったことは、片やバイブルに手を置き宣誓をし、片やなにも無し。人間ギリギリのところでの自分自身の身の処し方の違いでありました。今こそ政府にも企業にも、否家庭にも、宗教的な心を背景とした生き方が求められている時代はないのではないでしょうか。

(その9)

☆ 十二月にベトナム・カンボジアへ行って来た。ベトナムは唯一の曹洞宗寺院である永厳寺参拝であり、カンボジアはアンコールワット遺跡巡りとSVA(曹洞宗ボランティア会)視察の旅であった。両国とも戦争の名残が生々しいと想像していたが、思ったほどではなく、その復興には目を見張る。とは言うもののカンボジアでは地雷によって負傷した人々をいやと言うほど目にした。日本からもアンタックに参加し、殉職者を出したのもついこの前のことである。この国に埋設された地雷の数は数知れず、その撤去には二~三百年を要するという。 ☆SVAカンボジアのプノンペン事務所長・手束耕治師の話によると、ポルポト政権時代の大虐殺により文化人をはじめ、いわゆる中間管理層がほとんど抹殺され、総ての社会がスムーズに機能しないのだという。それ故に各国からの援助で学校などの建物を建ててもその後の管理運営がままならないという。 ☆そこでSVAでは各種職業訓練はじめ、文化・教育面での人材育成に力を入れているという。今回の視察でパソコン一台を寄贈することとしたが、SVAの地道な活動に微力ではあるが応援してゆきたいと思う。

(その8)

☆ オーム真理教事件は、あまりにもカルト的で破壊主義的で一般宗教とはなかなか結びつかない。しかし、現代の、しかもかなり優秀な若い人たちが入信するに至った経緯を見るとき、私達既成宗教者の責任は無かったのだろうかと自問せずにはいられない。 ☆人間、悩みを抱えない人はいないだろうし、大なり小なりの健康問題も抱えている。多くの人々は自己のコントロールによってそれら問題を乗り越えて生きてゆくわけである。しかるに彼らは何故? ☆「人は何のために生き、何のために学ぶのか」今の教育ではこの答えは見つけることは出来ない。人間の力など及びもしない、大きな大きな存在を科学では学べないのである。この大きな大宇宙の中で生かされている、私達の小さな小さな生命が如何に尊いものか、それを知らしめるのが宗教者の責務であろう。そして、誰でもが、気軽に門を入ることの出来る現代の寺子屋が、今こそ必要な時であろう。 ☆住職一人の力はほんの些細なものではあるが、そこに集う仲間の力は大きい。萬福寺月例会に参加されている、同行同修の「寺子屋仲間」を、一人でも増やすことが一宗教者としての、私の責務かもしれない。

(その7)

☆ 関西大震災に被災された皆さまには心よりお見舞い申し上げると共に、犠牲となられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
☆ 「安全神話」とまでいわれた近代文明の造り上げた数々の建築物が、いとも簡単に一瞬にして崩れさってしまった。それは大自然が人間の驕りと近代文明をあざ笑っているかのようである。大きな災害や事故の度に新しい技術が取り入れられているにも関わらずである。
☆ 「世の中に絶対などというものは一つもない」とよく話していた先住職の言葉を思い出す。水が高きから低きへ流れるように、常に移り変わっている。形のあるものは必ず壊れ、生あるものは必ず滅し、会うたものは必ず離れる時がくる。「これは絶対」などと思うから、不断の努力を怠るのであると。
だからこそ、与えられた生命を大切に一生懸命に生きよ、との釈尊のお示しであろう。
☆ 被災された方々には、この試練を生命として精いっぱい生きていただきたいものである。

(その6)

△ 一人の中学生が残した遺書が大きな反響を呼んだ。いわゆる「いじめ」問題である。「いじめ」自体は、なにも今にはじまったことでは無い。にもかかわらずここまで大きな社会問題となったのは、自殺にまで追い込んでしまった背景にあろう。△ 以前の「いじめっ子」は、いわゆるガキ大将が存在し、そこには暗黙のルールがあり、とことんまで追い詰めるようなことは無かったように思われる。ところが現在では、一見「シッカリした子」がいじめの中心となって、陰湿で頭脳的な弱い者いじめとなっているという。△ それにしても、彼らは何故簡単に自らの命を絶つ道を選んでしまうのであろうか。現代人は、命の尊厳さを忘れてしまったのであろうか。△ 現代は「心の時代」と言われて久しい。宗教的な生き方が求められているのである。釈尊は「天上天下唯我独尊」と呱呱の声をあげられた。前号でも述べたが、お互い一人一人がこの上もなく尊い存在であることを示されている。人間の尊厳さは、自分一人に向けられるものではなく、お互いがお互いの人間性を尊重しあうことでなければならない。ましてや「受け難き人身を受けたるのみに非ず遭い難き仏法に値う」ことの出来たこの身を、自ら絶つようなことは決してあってはならない。△ 「三つ子の魂百まで」と言われる。もっともっと宗教的な環境の中で、子供たちを育んでいきたいものである。